児玉美月|はたらく映画が私たちに問いかけること【自分らしく生きるための映画紀行 第1回】
労働の追体験
2026年3月、女性の映画作家による働く女性の映画が2本公開された。それがスイスの州立病院で働く看護師のフロリアを描く『ナースコール』と、スコットランドの物流センターで働くピッカーのオーロラを描く『オーロラの涙』。『ナースコール』にはペトラ・フォルペ監督が長年一緒に暮らしていた看護師の女性を間近で見ていた経験が、『オーロラの涙』にはローラ・カレイラ監督自身がポルトガルからスコットランドへと移住した経験が、それぞれ作品に織り込まれている。
この2本には、奇しくもいくつかの共通点がある。カメラがフロリアとオーロラの労働する姿をしばしば後ろから追い、観客は肩越しに彼女たちの見ている日常を追体験してゆく。看護師のフロリアが薬剤を取り出し、注射器に取り付け、シールにメモ書きをする所作、ピッカーのオーロラが無数に並ぶ注文された商品を棚から見つけだし、バーコードを機械で読み取り、それをカートのカゴに積んでゆく所作……映画は、彼女たちにとってルーティンとなっている業務をひとつひとつ、丹念に描き出す。

そのとき、フロリアはつねにナースコールや電話などの絶え間ない病院内の呼び出し音に取り囲まれ、オーロラのかたわらではたえずピッピッという冷たい電子音が鳴り響く。終始聞こえてくる音は、それぞれに置かれた彼女たちの労働環境における心理状態を、画面へリズミカルに刻みつけてゆく。フェミニズム映画の金字塔であるシャンタル・アケルマン監督作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975年)は映画が取るに足らないとして捨象してきた主婦の労働を掬いあげたが、『ナースコール』と『オーロラの涙』における淡々とした反復的な労働の描写は、その遺伝子を引き継ぐものでもあるかもしれない。

過酷な労働を映し出す
『ナースコール』はフロリアが病院に出勤し、帰路に着くまでのたった半日を切り取る。しかし仕事をするうえで遭遇しうる苦しみ、喜び、やりがいなどが、そのわずかな時間に凝縮されている。病に苦しむ患者のなかには、それゆえ自暴自棄になり、周囲に対して横柄な態度をとる者もいる。ただでさえ人手不足によって逼迫した状況下でフロリアはさまざまな事情を抱えた患者に向き合わなければならず、極限状態へと追い込まれてゆく。フロリアは過酷な労働によって精神がすり減らされているが、ときに女性同士の連帯が顔をのぞかせる瞬間もある。

劇中、字幕で提示されるように、スイスでは2030年までに看護師がおよそ3万人も不足する見込みだという。もちろん医療や福祉現場の人材不足は、少子高齢がますます深刻化する日本にとっても、決して他人事ではない。『ナースコール』は、現代の社会問題を臨場感溢れるドキュメンタリータッチで観客に突きつけるリアリズムの映画である一方、終盤には現実から逸脱した幻想的な展開が待ち受ける。それはきっと観客に、詩的な深い余韻を残すに違いない。
