児玉美月|はたらく映画が私たちに問いかけること【自分らしく生きるための映画紀行 第1回】
オーロラの流した涙
『オーロラの涙』では、同僚たちとの関係も表層的でしかなく、どこか孤独を抱えているオーロラが転職を決意し、面接を受けに行く。その場面は、おそらく映画のなかでもっとも胸が締め付けられる時間でもある。面接の担当者から「プライベートの時間には何をしてるの?」と聞かれたオーロラは答えに窮し、次第に涙を浮かべてゆく。それはごくありふれた質問にすぎないが、オーロラにとってはその身を残酷に抉られるような問いにほかならない。日々の単調な労働のほかに、自分にはいったい、何があるのだろう? わたしはいったい、誰なのだろう? 寡黙だった主人公が、形式ばった場で他者からの問いに不意に感情を吐露させ、映画の真髄が浮かび上がってくるのは、高校生のオータムが望まない妊娠をし、中絶を受けるためのクリニックでカウンセリングを受ける『17歳の瞳に映る世界』(2020年)を想起させる。

劇中には、オーロラが何気なくスマートフォンを操作する描写が幾度となく差し込まれる。スマートフォンの故障によってオーロラが取り乱すのは、それが生活のインフラ面を支える現代の必需品であるからだが、しかしそこには、人とつながっていたいという一縷の望みもまたそっと潜んでいるように思える。
オーロラがふと目に留める、上昇するベルトコンベアで延々と転がり落ちる荷物の『オーロラの涙』のイメージ。クリーニングされハンガーにかけられた、汚れひとつない綺麗な制服が何枚もベルトコンベアで運ばれてゆく『ナースコール』のイメージ。それらは、後期資本主義における物流労働やケア労働が、いかに代替可能な人間を求めているのかを象徴している。しかし、仕事を終えてフロリアが脱ぐ履き潰されて汚れた靴や、オーロラの瞳から零れ落ちる切実な一粒の涙(『オーロラの涙』の原題は“ON FALLING”であり、この邦題は落下の対象として涙を捉えている)に宿る、決して奪われてはならないかけがえのない人間性にこそ映画は光をあて、私たちに差し出そうとしている。
『ナースコール』予告編 『オーロラの涙』予告編
文:児玉美月
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